会津探訪

降伏式場跡 降伏式場跡 会津酒造歴史館 会津酒造歴史館 降伏式の容保父子 降伏式の容保父子 泣血氈 泣血氈 赤い丸が降伏式が行われた場所です 赤い丸が降伏式が行われた場所です

降伏式場跡(会津若松市)

明治元年9月21日、両軍の交戦は止んだ。翌22日、鶴ヶ城内に 「降参」 と大きく書いた白旗が掲げられました。城内は、白い大きな布さえ確保できず、土佐藩から譲り受ける有様でした。その正午、この甲賀通りの路上にて会津降伏式が行われることになり、松平容保は降伏文書を携えて、式場に現れました。

式場には緋毛氈がひかれ、その上で松平容保、善徳公親子によって降伏の調印がなされました。会津藩主従は、ここで改めて敗北の苦い現実を思い知らされました。

官軍側は、薩摩藩の軍監中村半次郎・長州藩の軍曹山県小太郎らが、官軍側全権として乗り込んで来きました。会津側は、板垣や、長州藩のもっと有名どころが出しゃばってくるのかと思い込んでいたので意表を突かれました。世が世なれば中村なにがしごときが、会津中将の前に出てこられるはずは無い。それなのに不遜なる態度でふんぞり返っていたのです。みんな屈辱のあまり身も震えるばかりの会津藩主従でありました。

身が震えているのは中村も同じであり、この時何が起きたのかを、彼は後に正直に語っている。それによると「ぼくは人は斬ってきたが、このとおり勉強が駄目なもんだから・・・会津の殿様が出した書状、なんて書いてあんのかさっぱり分からず、卒倒するかと思った」という。錦旗さえ揚げていなかったら、ろくに字も読めない強盗団のごとき 「西軍」 にひれ伏さなければならぬ屈辱は無かったろうと、ひたすら嗚咽を抑える会津藩主従でありました。式終了後、会津藩士はこの無念を忘れぬためにこの緋毛氈切り取り持ち帰りました。

後にこの小片が泣血氈と呼ばれ、この会津戊辰戦争終結の地の看板にも泣血氈の誓いと書かれてあります。會津酒造歴史館の前に写真の看板が建っています。
■会津若松駅から車で10分

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