会津探訪

郡長正 郡 長正 郡長正の墓 郡 長正の墓

郡 長正

安政3年(1856)〜明治4年(1871)会津藩家老萱野権兵衛長修の次男。幼名乙彦。

幼少より文武両道に秀でており、将来を大いに嘱望されていました。しかし戊辰戦争の敗戦後、父長修が会津藩の戦争首謀者として責任を一身に負って自刃、萱野氏は断絶となったため、遺族は郡姓を称しました。

明治2年(1869)斗南3万石として再興を許された会津藩であったが、一藩流罪ともいわれるこの苛烈な境遇を脱するためには、今後の過酷な藩政を担っていく有望な人材を育てることが急務とし、そこで藩士の子弟のうちから将来有望と目される7人を選抜し、北九州豊津藩の藩校育徳館へと留学させる事にしました。この7人のうちの1人に選ばれたのが長正、当時14歳であります。

長正は同行子弟のうちの最年少でありましたが、文武両道の修行に励み、次第に頭角を現すと、周囲から羨望のまなざしで見られるほどに成長するまで、さして日数はかかりませんでした。

しかし明治4年(1871)5月18日、長正は自室で自刃して果てました。

通説、豊津藩留学中に食事についての不満を記した母宛の手紙(もしくはそのことに対する母からの返信)を落とし、これを豊津の少年に拾われ「会津の武士道とは食事の文句を言うことか」と激しく嘲られ、会津武士道の面目を著しく貶めてしまったため、その名誉を一死をもって雪ぐべく自刃した、とされてきました。しかし事実は、常日頃から戊辰戦争中の小倉藩(豊津藩)の態度に対して行っていた誹謗中傷が著しい誤解だったことに気付き、尚且つ降伏した会津人たちが豊津藩の厚情のもとで東京へ護送されたこと、その際に少なくない脱走者が出て豊津藩へ多大な迷惑をかけたこと等々を知るにいたり、「豊津藩主様にお詫び申し上げる」として自ら命を絶ったのだといいます。長正は、父長修同様、会津の責を一身に負い、会津武士として謝罪するために自らの若い命を捧げたのです。

遺骸は丁重に豊津甲塚の墓地に葬られ、墓石が故郷会津に正面して建てられました。

copyright © AD BRAIN All Rights Reserved.