会津探訪

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萱野 権兵衛

天保元年(1830)〜明治2年(1869)5月18日。

文久3年父の隠居により家督を継ぎ、翌元冶元年重役になり、慶応元年権兵衛を襲名、36歳で家老となりました。

会津戊辰戦争(1868年)の際には、包囲された若松城の外にあって、兵糧を城内に送ることを指揮するなど会津藩を支えました。約1ヶ月にわたった籠城戦の後、権兵衛が米沢藩を通して板垣退助からの帰順勧告書を受け取り、それを藩主容保に届けたことで、会津藩は開城降伏へと向かいます。。

降伏開城後は。喜徳に付き添って東京の久留米藩邸に謹慎。権兵衛は藩主父子の助命を明治政府に嘆願し、その後、明治政府から会津藩の処置についての通達がなされます。その内容は、容保・喜徳親子を助命するかわりに戦争の首謀者3名をあげて処分するというものでした。当時の家老のうち西郷頼母は行方不明。田中土佐と神保内蔵助はすでに自刃していたため、家老職第4席にあった権兵衛が「主君には罪あらず。抗戦の罪は全て自分にあり」と述べ会津藩の全責任を一身に背負って切腹しました。このときの権兵衛の心底には、萱野家の祖が流浪中保科正之によって召し出され、今日の萱野家があるのだから国難にあたってその恩義に報いようとする一心があったという。

死に際して権兵衛は、一刀流溝口派の相伝者であり自分の死によって一刀流の奥義の絶えることを憂え、室内には金物が置かれていないところから、手許にあった竹の火箸を用いて井深宅右衛門に奥義を伝授したした話は有名です。その最期は、神色自若、一糸も乱れなかったという。権兵衛と最後まで一緒だった浦川も「その朝も言語・動作すべて平生と変わらず、いま死地につく人とは思われない静かな表情で、別に遺言する事もないと述べられた」と語った。

墓は東京白金の興禅寺と会津若松市天寧寺にあり、屋敷跡は現在埋蔵文化物管理センターとなっています。

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