会津探訪

近藤勇の墓(天寧寺) 近藤勇の墓(天寧寺) 新撰組 新撰組

新選組と会津

文久2年(1862)秋、会津藩主松平容保は拝辞し続けた京都守護職の大任に就きました。当時の京都は勤皇を叫ぶテロリストたちによって連日、殺人、放火、押込みなどが続いており、京の市民が会津に期待したのは、これらの輩の弾圧であり、治安の回復でした。折りしも文久3年容保の私設機動隊として新選組が誕生しました。王城の護衛者として会津藩士と新選組は身を粉にして働きました。京都での両者の奮戦も功を奏さず、慶応4年鳥羽伏見の戦いから敗走、隊長近藤勇は東京板橋にて斬首され京都三条河原で晒されることとなりました。一方、副長の土方歳三は旧幕府軍に加わり、宇都宮城の激戦で負傷し、その傷治療のため会津に到着、新選組残留隊士6名が再終結しました。その頃、土方は城下天寧寺に近藤勇の墓を建て、今では遺髪が埋葬されているのではないかといわれています。墓石に刻まれている「貫天院殿純忠誠義大居士」の法号は、松平容保が近藤のために贈ったものです。また新選組は斉藤一(後に藤田五郎)の指揮のもと、神指町如来堂で西軍と激戦を交わしています。新選組と会津藩は勇魂と武士道の義によって運命的に結びつき、彼らの戊辰における見事な姿は、会津の武士道精神そのものだったのではないでしょうか。

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